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コンサルタント、マーケターがなんだ?大それたことはない、半走者という存在。

コンサルタント、マーケターという仕事はなんなんだろうと考えるときがある。

私は会社員を辞め、オンラインビジネスで個人としてなんらかの成功をしたいと思って起業した。時は経って会社は5期目を迎え、対個人・企業に向けてそれなりの数の顧客にたいして、コンサルタントという立場で関わってきた。

仕事の哲学は人それぞれであり、正解はないが、私はコンサルタントという仕事は半走者だと思っている。お金をもらっているからという理由で距離感を調節したり、常に導かなくてはいけないとか、憧れの存在で居続ける必要はあるのか。

少々特殊な考えだと思うが、今日は私が経験したナオという、私が学生時代に経験した、個人塾でのアルバイト経験について話してみようと思う。

目次

コンサルタントとして高額な報酬を得てきたが。

上述のとおり、私はコンサルタントとしてそれなりの報酬を得てきた。

個人としてはずっとオンラインコミュニティを運営しているし、対企業とも新規事業の立ち上げや、オフラインビジネスをオンラインビジネスに置き換えたり、組織化・外注化までを仕組み化したこともある。

一言でいえば私は「コンサルタント」という仕事をずっと本業にしてきたわけだが、コンサルタントという立場で人と接したことはない。

それが、常識的ではないと言われればそうなのかもしれないが、私は、コンサルタントである前に人である。相手も、顧客である前にひとりの人間である。

手伝えることは手伝う。できることはなんでもやる。しかし、お金をいただいているからという理由で距離感を推測ったり、なにかを計算して付き合ったり、遠慮したり、「素の自分を見せない」という調節をしたことがない。というか、できないのだと思う。

しかし私はそれでいいと考えている。

私の転機は、のちに親友となる塾の先生だった

ところで、なぜ私がそういう考えになったのかも伝えておきたい。

詳しくはまた別の機会に書こうと思うが、私は普通ではない幼少期を送った。家族の機能不全からはじまり、精神的ストレスで失声症を患い、小学生にして精神科に通っていた。いつ思い返しても、まともな子供時代ではなかった。

この話はまたどこかで書こうと思う。

そんな子供時代だったから、当然勉強などしたことがない。中学生になって、友達の誘いで塾の見学に付き添いをさせられ、そのときの塾長が、暇そうにしていた私に声をかけてくれて一緒に偏差値テストを受けた。

そのときの偏差値は笑えない。30以下だった。

その後紆余曲折あって、結局私はその塾に通うことになる。

そこで初めて「勉強」を教えてくれた人物が、私の人生を変えてくれた

M先生というその女性の先生は、私の可能性をどこまでも信じてくれた。私はそのとき中学生で、先生は大学生だったが、友達のように接してくれた。私たちはめちゃくちゃ仲良しだった。

M先生は、出しうる限りの情熱で私を引き上げてくれた。「才能がある」「できる」「突出している」と声をかけ続けてくれた。その一方で本人はポンコツなところがあり、しょっちゅうダメ男に引っかかって挫折していた。

すべてをひっくるめて、本当に素敵な人だった。

中学3年生の夏に急遽受験勉強を開始した私は、半年で40近く偏差値を上げ、想定もしていなかった進学校へ進むことができた

これがいかに私にとっての転機であったか、言葉で表すのは難しい。

M先生とは今でも大親友であり、家族と同等の絆がある。彼女と出会えた私は幸せだった。

突然降ってきた塾講師のアルバイト

すこし話は飛躍するが、私は大学生までバリバリにスポーツをしており、プロの道へ進むと思っていた。

しかし、試合中に大きな怪我をして大手術を行う。生涯にわたり足の可動域が制限される怪我を負ってしまった私は、一旦色々な選択肢を捨て去らなければなかなかった。

当時、学校の近くの飲食店でアルバイトをしていたのだが、飲食店は意外と肉体労働である。怪我の回復を考えると辞めざるを得なくなり、長年続いていたアルバイトをあとにした。

そのタイミングで、私が通っていた個人塾から「うちでアルバイトしない?」と声をかけられた。実家から程近い距離だったのと、授業中は座っていられるから、都合がよかった。

「自分に塾の講師など務まるのだろうか」という逸物の不安はあったものの、もはや職を選べる立場でもなかったので有り難く引き受けた。

ナオとの出会い

そこで、私が初めて受け持った生徒は「ナオ(仮名)」という中学校1年生の男の子だった

ナオは、私の地元では有名な、金持ち家系の長男だった。私でも存在を知っていたほどだ。

ナオは生まれながらのお坊ちゃんのはずだが、なぜか不登校で、大人の言うことを全く聞かなかった。学校の宿題もしない。成績も悪い。親の言うことも全く聞かないということで、両親がお手上げになったところで、なぜか私のところに役回りが回ってきた。

初めての仕事にしてはハードモードすぎるのだ。しかし仕事だから、やるしかない。

ナオは鋭い目をした少年だった。

少しも笑わない。こっちが話しても相槌も打たないし、話も聞いていない。つまり全く授業にならないわけだ。

しまいには、私が受け持つようになってすぐに、学校の体育館の用具に火をつけ停学になったり、独学で電磁波を放つ小爆弾みたいなものを作ってきて、私に電磁波を流そうとしたり、笑えないことばかりだった。

しかし今思い返しても、ナオは本当に可愛かった。いたずらで大変だったが、悪人じゃなかったし、目を見てちゃんと話すとちゃんと聞くのだ。

当時の彼の背景は私にはよくわかっていなかったが、子供というのは世間が思っているより、ずっと大人で、多感で、世界をよく見ている。私はナオとよくコミュニケーションを取るようにした。

彼ともまた、友達のように仲が良かった。当時私は大学生だったから、塾で一緒に宿題をしたし、方程式などをド忘れするとナオに教えてもらうこともあった。思えば、私がしょうもない相談を聞いてもらうこともあった。

そのうちナオはグングン偏差値が伸びていった。彼は天才に近いものがあった。全然授業に出ていないのに、あっさりと難しい問題を解く。

そのうちに宿題もするようになり、学校の成績も伸びた。問題行動も減り、先生とも揉めなくなった。親御さんとも関係が良くなったそうで、よくご両親がお礼の挨拶をしに来てくれるようになった。

ナオのことはその後2年くらい受け持ったが、彼はしっかり進学校に進み、立派な人生を歩んでいる。今や私が教えることもないだろう。

人間の可能性

「彼の思春期に私がなにかできていたのかもしれない」、と思ったのは、実はつい最近だ。

私には姉がふたりいて、地元に住んでいるのだが、つい半年くらい前に3人でお酒を飲んだときのこと。

そういえば、ナオが会いたがっているらしい」と言われたのだ。

実は姉のうちのひとりが、習い事のつながりでナオの祖母と知り合いだったらしい。ナオ→ナオの祖母→私の姉という経緯で私のところにそんな話が回ってきた。

あまりに久しぶりにナオのことを思い出し、彼への愛情がまざまざと思い出された。

私はそのときまであまり意識していなかったのだが、ナオの家族は「ナオはひとみと出会って更生し、開花した」と思ってくれているらしい。有難いことだけど、それはナオの元々持っていたポテンシャルだ。

私自身、彼と出会ったことで、人間の大いなる可能性を感じた

たまたま思春期で、彼にとって大事な時期に私が出会っただけだと思う。しかし彼を縛っていた、なんらかの鎖を外したのだろう。私もそうだったからわかる。

でもそれは、別に相手が自分より偉かったからじゃない。「先生」として崇高な態度で接してくれたからじゃない。

自分の目を見て話を聞いてくれたからだ。ひとりの人間として受け止めてくれたからだ。自分の知らない可能性を信じ、一緒に走ってくれたからだ。

M先生がそうだったように。

それが嬉しくて、少しでも期待に応えようと思って、頑張るのではないか。

人は自分のためだけにそこまで頑張れない。守りたい人や、期待に応えたい人、喜んでほしい人がいるから、限界を超えた努力をするのではないか。

私は、自分を暗黒期から救い出してくれたM先生との出会い。そして、10年以上経った今頃「会いたい」と連絡をくれるナオやナオの家族との出会いを通して、年齢・立場・性別・時代をすべて超えた、人間同士の絆を知っている

だから、コンサルタントとか先生とか講師とか言われても、ピンとこない。

誰かの人生が輝きだす瞬間に立ち会い、その過程ですこしでも良い影響を与えることができるとするならば、それは「フラットな人間関係」の間でしか起こらないと思っている。

特に、相手が自立した人間であればなおさらである。

半走者として走り続ける

だから私はこれからも、フラットに生きる。ひとりの人間として付き合い、高めあう。

そのなかで自分の方がすこしだけ経験値の多いこと、すこしだけ先に実践したこと、すこしだけ早く知ったことを、クライアントに還元してゆくだけだ。

私にとって、コンサルタントあるいはオンラインビジネスマーケターというこの仕事は、誰かの半走者であることだ。

そうやって接するだろう。そういうコンテンツを生み出し続けるだろう。

クライアントと共に走る。一緒に成長する。可能性を信じ、励まし続ける。

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